没後30年 熊谷守一展 −天与の色彩 究極のかたちー @埼玉県立近代美術館

このあいだ、写真と絵が、同じように並べられている企画展に行って。絵を描く必然性(絵である必然性)についてぼんやり考えた。それがほんとにわかるのは、絵を描く人だけかもしれないけれど。熊谷守一の絵は、絵というものの必然性をつきつめたひとつのかたちだと思う。そぎおとしかたや色の選び方や視点や、自分というものをみつめる目。絵というものはこうあるべきではないか?というひとつのかたち。

「どうしたらいい絵がかけるか」と聞かれたときなど、私は「自分を生かす自然な絵をかけばいい」と答えていました。下品な人は下品な絵をかきなさい、ばかな人はばかな絵をかきなさい、下手な人は下手な絵をかきなさい
  へたも絵のうち (平凡社ライブラリー)

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ボリュームもあり、充実した展覧会だった。初期〜晩年の油絵、日本画(のびのびしていて楽しげで素敵)や書、最後に写真の展示まであった。写真の展示は予想外だったのでとても嬉しかった(そう、わたしは熊谷ファン‥。だってかっこいいよねえ)。写真集、近いうちに買おう。けっこう疲れたのだけど、幸福な疲労。天気がよかったので、公園のベンチ(公園敷地内にある美術館という文化度のたかいシチュエーション)*1でドーナツを食べたら、春の幸福感がおそってきて困った。
わたしは熊谷守一の絵のなかで、猫の絵(線のえらびかたの的確さにふるえる‥。頭蓋骨のまるい孤独なラインときたら泣きそうだ)と虫の絵(なんでこんな小さなもの・動くものを、慈しみながらもきちんと観察できるのだろう)が、特に好きなんだけど。虫の絵が好きなので、蠅の絵も好きなんだけど。解説にこう↓書いてあってびっくりした。(最後の一文ね。みんなが蠅の絵を好きなわけではないのか‥)

虫に目がない守一は、蚊や蠅のことも面白がりました。「光った蠅。みな嫌うけどわたしは好きです。あれがいるとにぎやかです」「病気のときなんて、床の周りをぶんぶん飛んでくると景気よくて退屈しない」。命あるものに向き合う守一の心持ちは、いつも平等です。てかてかした傍若無人な蠅の活力に満ちた愉快な作品ですが、元気の度合いはその時々で違いました。好きでよく書いたものの、展覧会では人気がなかったといいます。

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それにしても、行こう行こうと思いつつ先のばしにしているうちに、熊谷守一美術館が、娘さんの個人美術館から区立の美術館になっていて、なんとなく、申し訳ない(?)きもち。定期で行ける距離なのにそちらには行かず、わざわざ北浦和まで電車を乗り継いで出かけるなんて、面目ない(?)。でも北浦和、思ったより近かった。池袋から30分もかからない。はじめて乗ったJR武蔵野線、梅の木立が並んでいて、よいながめだったし。でも武蔵野線、側面が壁に囲まれていて、空しか見えない区間があり、そのあいだは空を見ていたのだけど、風景が見えないとなんてつまらないんだろう。地下鉄にはいつまでたっても慣れることがなくって、今、どんなところを走ってるんだろう、ってすこし不安になる(地下鉄に乗るときは文庫本必須)。以前、生粋の東京育ちの人が、「地下鉄で知らない町へ行くのって大好き!地下鉄の階段をあがって地上にでるとき、どんな景色が待ってるんだろ?って思うとワクワクする!」と言うのを聞いて衝撃をうけたことを今でもたまに思い出す。

*1:いいなあ浦和市