新文芸坐に行くつもりじゃなかった

新文芸坐に行くつもりじゃなかった。
シネマヴェーラで「フランス映画の秘宝」を観るつもりだった。フランス映画 プラス秘宝、イコール見たい。でも松江監督がそこまで言うのだからポレポレ行こうかなあ、とも思っていて、でもポレポレでレイトショー見てその後トークショーって、観終わって家に着くのは何時だろ?シュミレーションしたら気が遠くなって、まだ火曜日だしダメだダメだ、やっぱりヴェーラだって思いなおして、でも渋谷駅からヴェーラまでの道のりってけっこう長い。映画が終わって帰る自分をシュミレーションしたらとてもわびしいきもちになって。まっすぐ家まで帰ろうかなあ、でもわびしいきもちのままで家に帰るのはなんだか負けな気がするよ。そう思い新文芸坐へ行ってしまった。予想外。映画を2本観た帰り道、わびしさは消えていた(映画のパワーに圧倒され、わびしさに支配されてる場合じゃないのよ的なスィッチが)。
あのわびしさはなんなのかなあ。たぶん、今日観なかった映画を、このさき観ることがあるのかと考えたすえのわびしさ。本好きの人は、自分の人生のなかで出会えないであろう「読んだら大好きになる本」のことを考えてたまらないきもちになることがあると思う。めぐりあえず、開かれることなく終わる本。音楽好きの人は、CDやライブハウス。いま自分が選んだものの影にある、選ばなかったものの存在。たまにその存在に足をとられそうになるけれど、弱り気味のときなのかな。元気になれば、だから出会えたものたちを大切にするんじゃない、って思えるのだもの。
しかし映画に関しては、「有限の時間だからおもしろいものをいっぱい見たい!」のだけど、「おもしろいものだけ見ていたい!」とも思わないのが謎だ。いや、そんなにおもしろそうじゃなくても、気になったから見てみたいとか、たまにへんなものを見てリフレッシュしたいとか‥。冒険心といえば冒険心、雑念といえば雑念に、けっこうとらわれる。人生の残り時間は有限と知りながら、同じもの何度も見たり‥。
ていうか悩んだすえに「皆殺しの霊歌」‥。しかも悔いなし。