謝罪ならびに現状報告その他(岡崎京子)

 

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 さて、私はかつてフェミニズムを「何か、嫌い」とヒトコトで片づけてしまった動機について考え、ある結論を得ました。それは、“「社会」に関与する主体としての自分を労働する者や生活者としてで無く「消費する者」としてとらえる場合”に、そうゆう何も考えてない状態の発言に至るとゆうワケです。


謝罪ならびに現状報告その他(岡崎京子) (1993年雑誌『思想の科学』誌上アンケート「あなたにとってのフェミニズムとは?」より)

 何度も読んでいたエッセイ集の、岡崎京子の文章にものすごおく共感してしまった。今まではどんなかんじで読んでいたのかなあ。思い出せない。

 若い人たちはまた違うのかもしれないけれど、自分の年代にとって、人生は(男女問わず)消費者として始まる。こどもが社会に参加する局面が消費者なだけかも。一生消費者としてまっとうするのも悪くない。経済的な不安がなければ不自由ない。人生で強者といわれるポジションにいる人ほど、その傾向が強いんじゃないかな。

だから、どこで、その視点を変えるか‥。別に本人が変えたくなかったら変える必要もないんだけど‥。変えないほうが楽な局面もちょいちょいあるし。ただ、それは年相応の成熟を拒否するもので、とてもグロテスクなんだけど、こども大国ニッポンでは意外と居心地良さそうで。うーん、自分の考えでは、すっかり視点を変えるのではなく、今までの視点が消費者目線だったことを自覚して、視界を上書きする必要があるのだけど。まず自覚‥。いろいろなものの見方を知りながら、自分の見る世界を再構築すること。ちなみにおたくは無敵の消費者なんですよね。うん、ある場面では消費者目線はとてもだいじ。大切。ただ、世界すべてを消費者目線で見ようとすると間違ってしまうから、見極め‥。

なんか、他者をコンテンツとして消費しようとする人の多さに疲労して、なんでそんなことになるんだろう、と考えていた時期だったので、このエッセイに共感するとともに、ああ、なにもかもずいぶん前に何百回も言われ尽くされたことだったし、自分も何度も読んでいた文章だった‥。岡崎京子はこの文章を書いたとき何歳だったのだろう、あらためて、すごいな。と。ううむ。