デュオ別冊 大島弓子の世界

今日はいちにち、部屋で漫画を読んで過ごした。三月に地震の影響で節電→映画館行けない(閉館してたり閉館時間が18時だったり)*1→家で漫画読む→昭和の少女漫画さいこう。のループに入ってしまったのです。陸奥A子清原なつの*2ときて、いまは大島弓子(初期から読み始めて、『綿の国星』はまだこれから。もったいつけてとってある)。このあと気力があれば三原順にいくのだけど、もうかれこれ五年以上、そんな気力はわいていない。
そんなわけでひさしぶりに手にした『デュオ別冊 大島弓子の世界(昭和58年刊行)』。大島弓子が自作について書いたのエッセイが興味深かったので書き抜き(平仮名使いに「ん?」と思うのは、昭和50年代は、文字は手で書いていたからだと思います。森ではない)。ものをかくことについての考察*3

 このエッセイのしめきり寸前に、「四月怪談」のふたつの読後感を聞いて、それが対照的なものの見方だったので書きます。
 「四月怪談」というのは某誌6月号に発表した自作の読み切り漫画でして、内容は女の子が霊界をさまよっているうちに、そこにいた少年の霊となかよくなって、もう生きかえるのはやめようかと思ったとたん、クラスメートが女の子の大好きなれんげの花を持ってきた。女の子はそのれんげほしさに少年霊もいっしょに連れて自分の体の中にかえり、生きかえってしまう…という話。

四月怪談 (白泉社文庫)

四月怪談 (白泉社文庫)

 これが発売になって数日後、○○編集部から電話で、
「うちのN編集さんがあれ読んで、“そうよ、れんげのひと束で、人間なんて生にも死にも傾くのよ”といっていた。いいかたがすてきでしょ」
 といってきた。うん、とわたしは思った。
 もうひとつの読後感は、ふたりの母親になる人に直接きいた意見。
「あれさ、読んでるとおもしろいのよね。アハハと笑って読んじゃったわよ。そしたら次の日、16歳の女の子が自殺したっていうニュースが入ってさ」
「あのまんが読んで?」 
 とわたしはいってみた。
「まさか、そうじゃないわよ。そうはいってないわ。だけどさ、はたと考えてあのまんがを読むと、おんなじなのね。おんなじなの楽しさがね、生界も死界もさ。だからあれ、話のもってきようによっては、れんげの花が火葬場にやってきた。女の子はついに自分の体に戻れなかった。でも、それほどくやまないでクラスメートと別れのあいさつでもして去って行く。あーあ、さようなら…とももっていけない話じゃないじゃない」
「なるほど」
 と私は自分が考えもしなかったストーリーはこびをスラスラ語る彼女を感心してみていた。彼女はいった。
「だから死のうとしている子が、あれをみて、どっちにいくかね?生きようとは思わないんじゃないの」
 ハハーン、この人は母親の視点、子供を死なせるものかという視点であの物語を読んでいるな…と私は思った。彼女はつけくわえた。
「だからさ、仏教のように確固たる死後の地獄をかいたほうがいいと思うんだけど」
 私は仏典を読んでないので、そこらへんは詳しくないのだが、仏教は普通に生きた人が死んでいくところは、ものすごくおぞましいところであるとは決していってないんじゃないかと思う。
〜 略 〜
 うわ、おおはばに話題がそれちまった。えーと、つまり私のいいたかったことは、この作品は死にたい人のためにかいたものじゃなくて、生きたいと思ってる人にあててかいたものなんだということ。母親の人の意見もユニークでおもしろかったけど、かき手の本意としては、前者の意見のほうがほしかったの。
「れんげのひと束でどっちにも行っちゃうわよ」
 このひとことのあとをわたしは聞いていないのだけれど、私はこうだと思って胸をなでおろす。
「そ!生きるともなしに生きている現代人にとってはね、れんげひと束で生きるか死ぬかが決まっちゃうのよ。だからさ、れんげを待とうよ…っていうんじゃなくてさ、このさい、れんげをつんでわたしてあげようじゃないの」
 −−あああ、欲ばっちまった。いろんな人が読んでいろんなうけとりかたしてると思うけど、かき手のほうにもいちおうあるのよね。かなめが。
 だけど私がいちいちラッタッタに乗って日本国じゅう説明して歩くわけにはいかないしさ。作品のなかには、そこまで口はばったくていえないってところがあってね。むつかしいですわね。 
 〜後略〜 
    (デュオ別冊 大島弓子の世界 「ユーミンおもちゃ箱 3」より

*1:四月はそれを取り戻そうと?けっこう映画館行った。しかしいつ余震がくるかわからないので、メインが一本目だったときの二本立てとか、背徳感はんぱない。地味な趣味だった映画鑑賞が背徳感とセットになるとはね

*2:いつか時間のあるときにつのる思いを書きたいのだが

*3:なにがいいたいかというと、大島弓子の漫画はいいね。それだけ